辰巳悦加(よしか)選手(高51期)を応援しよう!!

〜世界陸上・女子3000m障害で水濠での転倒にもめげず完走〜

 

北4=高16期 松本耕司

(写真提供)高11期 押田良樹

 

「定年と同時に世界陸上組織委員会へ」

2年に一度の「世界陸上競技選手権大会」が、この夏、大阪・長居陸上競技場で開催されたことは、多くの皆さんのご記憶に新しいところであろう。

私は、北高時代は陸上部のマネージャー、大学時代のS43年にはそれが嵩じて関西学生陸上競技連盟の幹事長をつとめるという経験をしている。言わば、「裏方さんの学生プロ」ということだった訳だが、この3月に某メーカーを定年退職したところをいろいろな因縁に絡めとられて、半年間だけ、世界陸上の運営を手伝うことになった。チケットの拡販や本番の長居でのVIP対応を担当して欲しいというものであったが、昔、お世話になった陸上競技の世界大会が定年と同時に大阪でひらかれるとは、又、そこにお呼びがかかるとは・・・、私も何か運命的なものを感じ、勇んで半年間汗をかくことにした。

 

「35年後輩の辰巳選手の快挙、世界陸上・日本代表に決定」

その真面目な気持ちも、いささか中だるみをしかけ、又、国際大会の調整のむつかしさもひとしお感じるようになって、観客として楽しむだけの方がよかったかなと思い始めた6月末に、思いもかけなかった北高陸上部出身の後輩・辰巳悦加(よしか)選手(北39=高51期)が、女子3000m障害で日本代表に選ばれ、世界陸上に出場するというビッグニュースが飛び込んできた。

お会いしたこともない35年も後輩の選手であるが、私としては単なる偶然では片付けられないものを感じ、以降2ヶ月、辰巳選手を応援することも大きな目標となった。その結果、辰巳選手のことは勿論、郷里松江をキーとする多くの皆さんとの人間関係の再構築ができ、私としては極めて有意義な時間を過ごすことができた。

「世界陸上」は、私個人としては人生のひと区切りの意味があったが、辰巳選手には大きな彩りを添えていただいたということで、いくら感謝をしてもし足りないと思っている。そして、辰巳選手のことを一人でも多くの同窓の皆さんに知っていただければと思い、又、この間、お世話になった方々への感謝の念を込めてこの原稿を書かせていただくことにした。

 

それが起きたのは6月29日、辰巳選手の存在を知らなかった不勉強な私は、世界陸上の代表選手を決める日本選手権が長居でおこなわれているその同じ舞台裏で、世界陸上のある揉め事に巻き込まれていた。疲れ果てて帰宅したところに、後輩の木島(中村)光子(高17)さんから、メールを受け取ったのが始まりであった。折角、長居にいながら私が見なかった「女子3000m障害」で、挑戦わずか3度目の辰巳選手が2位に入り、しかも世界陸上参加標準B(9分58秒00)を僅かに突破する9分57秒02の好タイムで、世界陸上の日本代表を決定的にする快挙をなしとげたというものである。

 

「知らぬは私だけ・・・」

驚いた私は日本陸連の競技運営委員長の要職にある吉儀宏(高14)先輩に確認をとり、又、松江市陸協理事長の金山滉(高14)先輩(陸上競技部OB会(三柳会)会長)にも確認を入れた。

金山先輩からは、たまたま世界陸上参加のアイルランドが小泉八雲の関係で事前合宿地として松江市を選んだことから、世界陸上の開会式には松江市長以下バス2台で応援に行く予定だったが、女子3000m障害も初日におこなわれるので、辰巳選手の応援を追加検討しているとのことであった。

次いで同期の木村隆司(高16)三柳会副会長からは、後述のような辰巳選手の事情から資金カンパをするので、近畿の三柳会員をまとめて欲しいとの依頼を受けた。

又、かつて北高の陸上部監督であった玉野二三男氏(鳥取西高出身、現・松江東高勤務)からは、辰巳選手は自分の監督時代の教え子で、実は長居にも応援に来られ、快挙を目のあたりにして涙にくれた・・・・という話も聞いた。

近畿双松会にも報告をと、副会長の押田良樹(高11期)先輩に連絡をしたところ、陸上部とは何の関係もない同氏ですら、都道府県女子駅伝で辰巳選手が島根のために活躍をしていることを既にご承知で、現在、彼女が所属する「和光アスリートクラブ」のHPまで教えていただいた。

知らぬは、ホンの直前までバタバタとサラリーマン生活を送っていた私だけだったのである。

 

「辰巳選手のプロフィール」

ご承知の方には冗長になって申し訳ないが、私が確認した辰巳選手のプロフィールは下記のようなことであった。

辰巳選手は中学3年の時に松江一中に転入、そのまま北高に進学。北高時代は400m、800mで県大会に優勝しながら、惜しくも中国大会で入賞を逸して全国大会に出場できなかったという悲運を経験。島根大学では4年生の時に日本インカレという学生の檜舞台で7位入賞を果たしたが(これ自体もスゴイことだが)、残念ながら世間の注目を集めるところまでには至らなかった。

しかし、神様はどこかにいるもの、そのレースを見ていた実業団スターツの上野敬裕監督に秘めた才能を見込まれ、将来の進路も変更して実業団選手として入社。以降3年、都道府県駅伝ではふるさと選手として島根に貢献しながら、着々と地力をつけてきていた。

転機が訪れたのはこの4月、思わぬ上野監督のスターツ退社という出来事があったが、本人は自分を見出してくれた野監督の指導を引き続き受けたいとして、何人かのメンバーとともに迷わず退社。上野監督が設立した和光アスリートクラブ(埼玉県)に所属し、和光の森林公園を練習場に、監督の貯金や、失業保険で急場をしのぐという逆境の中での日々を過ごすことになる。

そして、上野監督も本人もおそらく勝負を賭けたのであろうが、3000m障害わずか3回目のレースでいきなり前述の快挙をなしとげ、一挙に「無職のランナー」、「ハローワークの星」などとマスコミにも取り上げられるようになったというものである。

 

「自分が頑張ることで、皆さんに喜んでもらえれば・・・」

ここまでの話はマラソンの野口みずき選手がそうであったように、この世界ではない話ではない。しかし、思わず激励のメールを打った私に返ってきた辰巳選手のメールは、至って謙虚で丁寧な人間性を感じさせる・・・「自分が頑張ることで皆さんに喜んでもらえればそれが一番嬉しい」という内容のもので、この人柄や心構えであれば、きっと多くの人に支持、応援されるに違いないということを直感させるものであった。

 

「多くの方々からのあたたかい応援」

それからの私は、自分が偶然にも関係した世界陸上(個人としては運命的なものも感じているが)に、後輩の辰巳選手が勝負を賭けて挑んできているという現実に対し、できるだけの応援をしてあげたいと思うのにほとんど時間はかからなかった。

既に、それぞれの立場で立ち上がっておられた前述の方々とさらに密に連絡をとり、松江の三柳会を中心にした支援カンパや、長居での本番の観戦応援の準備をすすめたり、又、世界陸上がおこなわれる地元大阪の当近畿双松会のHPにも紹介をさせていただいた。近畿双松会の役員会で支援カンパのご理解をいただいたことも誠に嬉しいことであった。

特に、特筆すべきは、多くの島根県人が集うお店「へそ」(南森町東南角、大阪天満宮近く・06−6356−5366)の女将、隠岐出身の若松靖子さんが、近畿双松会の村尾俊治(高11)先輩のご助力もあって、北高とも陸上とも特に関係のない多くのお客さんに呼びかけていただいたということで、同県人の人情の有難さをしみじみと感じ、忘れられない有難い思い出となった。

 

「長居に集まった50名強の応援団」

結局、8月25日(大会初日)のAM10時40分からおこなわれた辰巳選手の出場する女子3000m障害の応援のため、AM5時に松江をバス1台が出発し、近畿各地からの応援組とは水濠の上あたりで合流することになった。写真のとおり、併せて50名強の臨時応援団が辰巳選手に力強い応援を送り、久しぶりの出雲弁での邂逅のひとときも持たれることになったのである。

                                                                
(写真1、応援風景: 緑のTシャツが同日夕方の開会式でアイルランドも応援する予定の

松江からの方々)

あるいは、もっと多くの方々が応援に来ていただいたのかもしれないが、私がお聞きしていたのは以下の方々である。特に近畿双松会の押田先輩には写真撮影で絶大なご協力をいただいたが、以下に皆様のお名前(敬称略)を記して心からの御礼を申し上げたい。

<三柳会・松江>佐藤方則(高3)、佐原亘(高9)、金山滉(高14)、福田磨寿穂(高16)、木村隆司(高16)、曽田和男(高16)、石橋万紀男(高16)、大野真理子(高21)、原洋介(高27)、玉野二三男(前・北高監督、現・松江東高)

<三柳会・近畿>寺本尚由(高5)、大島(三原)千恵子(高9)、米原(石川)津多恵(高11)、藤城(稲田)綾子(高12)、二階堂(糸賀)孝子(高15)、木島(中村)光子(高17)、宮本(永田)由美子(高17)、江角健一(高19)、

<近畿双松会>押田良樹(高11)、村尾俊治(高11)

<島根県人>村上勝美ご夫妻(松江工業卒、現・関西大学陸上部コーチ)

 

「辰巳選手のレース結果・・・水濠で二度の転倒にもめげず必死の完走」

辰巳選手のレースは、朝から34度という猛暑の中でおこなわれた予選3組で、何と応援の皆が見守る目の前の水濠で二度転倒するアクシデントに見舞われ、最下位に終わるという残念な結果になった。スタートでは中盤の好位置をとったものの・・・、

  
(写真2、スタート:左から6番目)

(写真3、スタート直後、17人中10番目の好位置をキープ)

(写真4、一回目の水濠直前:左から3番目)
最初の水濠での日本では見られない押し合いへし合いの格闘技状況の中で、障害で足がすべったところを水濠の外まではじき飛ばされて横転するという厳しい国際競技の洗礼を浴びてしまったのである


(写真5、一気に後ろから3番目に後退) 

この後、辰巳選手は二周目の水濠も着地に失敗して転倒、右足首を捻挫してついに最下位に落ちるという厳しい前半となった。私もこのレースだけはとメーンの跳躍助走路の付近で応援していたが、日本陸連の幹部が「将来を考えて棄権をさすべきではないか」とあわただしい動きを始め、しかし、再び走り始めた姿を見て、その動きを止めたのを目のあたりにしていた。

そして、それからの辰巳選手のあと2000mの走りこそ誠に見事であった。捻挫でバランスを崩しながらも必死に何周もかけて前の選手を追い上げる辰巳選手の姿に2万1千人の観衆から惜しみない大声援も起こった。殆ど追いついて、何とか最下位から脱出しようと、最後のハードルを越えて顎を引いてラストスパートをかけた辰巳選手の姿は今も忘れることができない。

 

本人も、「棄権」という文字が頭をよぎったが、大声援を耳にして最後まで必死に走ろうと覚悟したと、後からブログで述べているが、あの大声援を辰巳選手は一生忘れることはないだろう。私も負けて残念なのに、何かしら爽やかな・・・、そしてあの状況下で完走した辰巳選手を後輩に持つことを誇りに思う気持ちさえ抱いた。おそらく、応援に来ていただいた方々も同じ思いであったことだろう。松江から応援に来ていた辰巳選手の恩師の玉野先生は「ビデオをまわしながら、けな気な姿に、涙で手が震えた」と術懐しておられるが、さもありなんと思う。

 

「辰巳選手に教えられたこと」

かくして、辰巳選手の6月29日からの2ヶ月の世界陸上体験は、自己記録を35秒も下回る10分32秒67の悔しい結果とともに終わった。しかし、この経験が辰巳選手の貴重な財産になったことは勿論、私はそれを見ていた多くの人々のそれぞれに忘れていた何かを思い出させてくれたと思っている。私の場合は「爽やかに生きること」と、「感動することの大切さ」であるが・・・。

そして、辰巳選手の生き方や世界陸上で見せた頑張りは、卒業後7年の努力を経ての快挙であるだけに、北高の後輩や島根の高校生たちにも大きな励みになり、人材育成や成長の過程における多くの好影響を与えたに違いない。このことを心の底からうれしく思うのである。

 

「北京をめざして新たなスタート」

辰巳選手の世界陸上での捻挫は深刻な事態にはならず、回復は順調だと聞いている。転倒の原因は誰しもが感ずるとおり、国際的なレース経験が一度もなかった経験の浅さに尽きるが、本人はこの強烈な経験を活かし、このひと冬で更に地力をつけ、強くなって帰ってくると力強くブログで語っている。

その目線の先にあるのは、ただ一つ、来夏の北京オリンピック出場であろうが、その道も平坦なものであるはずがない。しかし、辰巳選手の今の強い思い、真摯な姿勢がある限り、十分に実現可能な目標であり、是非、日本の第一人者になって大きな花を咲かせて欲しいと心から願っている。

 

「辰巳選手を応援しよう」

実は、私はまだ直接、辰巳選手に会ったことはない。しかし、これだけ多くの皆さんに感動を与えている辰巳選手、そして、長居での10分間の死闘をつぶさに見た私は、自分の直感も加え、素直で謙虚で芯が強い、誰もが応援したくなるような長所を持っている選手であると確信している。

そして、辰巳選手の今日があることには、郷土の風土や北高の伝統も少なからず関係しているのではないかとも思いたいが、この辰巳選手の存在をどうしても沢山の同窓の皆さんに知っていただき、応援していただきたいと考え、あえて拙文を投稿させていただいた。

立ち入りすぎて辰巳選手にもご迷惑をかけているかもしれないが、意のあるところをお汲み取りいただければ幸いである。

以上

 

<追記>原稿を書き終えた後の9月25日、辰巳選手は上野監督とともに神戸に本拠をおく(株)ノーリツに入社して北京をめざしていくことが公表された。

辰巳選手にとっても、丁度半年間の「無職のランナー」期間であったが、この間に怒涛のような人生経験をしたことになる。そして、競技者にとってのより良い環境を自力でかち得たことになるが、この結果も日頃の精進の賜物であり、ご本人のために心から喜び、再出発先での活躍を祈りたい。

と、同時に、名実ともに近畿双松会の一員となられる訳で、不思議な縁のようなものも感ずるが、皆様には今後とも辰巳選手への応援をよろしくお願いしたいと思っている。