当会会員で20期の渡辺悟氏(元当会事務局長:元毎日新聞社論説委員)が、
2006年9月3日の毎日新聞大阪朝刊「発信箱」に辺見じゅん「収容所から来た遺書」
について書いておられますので下記にご紹介します。


職場に俳句会が出来て10年たった。宗匠なしののんびり句会。そのくせ遊びだけは熱心だ。
そんな会に 未来はあるのか、事務方を担当する私に一文を書くよう同人から注文があった。
「まあ固いこと言わず楽しもう、大いに遊ぼうよ」。こう書いて一言加えた。「俳句に全存在を
かけてい る人たちも忘れないでおきたい」
第二次大戦後、ソ連に長期抑留された日本兵たちを思い浮かべて書いた「蛇足」だった。
彼らは俳句をクギで凍土に刻んだ。監視に見つからないよう句は消された。やがてセメント袋
の紙が使わ れたが、句会後ただちに埋められた。
「帰国の日まで美しい日本語を忘れないようにしたい」。句会を呼びかけた山本幡男氏は
敗戦から9年後 の1954年夏、ハバロフスクの強制収容所で病死する。4 5歳。
その様子を描いた「収容所から来た遺書」(辺見じゅん、文春文庫)を氏の祥月命日である
8月2 5日夜 読み返した。
ボロをまとい、飢えと重労働に押しつぶされそうになりながら、なお自然のみずみずしさに
心躍らせる人たち。わずかに残された句は美しい日本語の結晶だ。
山本氏が母と妻、4人の子供にあてた長い遺書は日本に持ち帰れないため、句友が分担して
暗記し、帰国 (56年12月)後細切れの形で遺族に届けた。遺書が最後に届いたのは87年の夏。
たった19年前のこ とだ。
小(ち)さきをば子供と思ふ軒(のき)氷柱(つらら)
シベリアの特大の氷柱に交じる小さな氷柱に我が子を重ねる山本氏。
ギリギリのユーモアに俳句の力、人間の力が凝縮されている。(論説室)