第7回歴史ウォーキング 平成24年12月2日 清盛in神戸

12月2日、第7回目の歴史ウォーキングを開催しました。今回は今年のNHK大河ドラマ「平清盛」に因み、清盛が当初都の候補地として計画した和田京の寺社や史跡を訪ね歩きました。今年は元々9月30日に開催予定だったのですが、あいにく台風17号が近畿地方に接近し、やむなく中止となりました。しかし、7月の暑い盛りに世話人有志が下見をするなど準備を万全にしていただけに、このまま実施しないままでは残念だと、リベンジの機運が起こり師走の2日に開催することに決まったものです。
この「和田京」予定地であったJR兵庫駅の南の地区には清盛にゆかりのあるお寺や史跡が多く、地元ボランティアガイドの方お二人の案内で約5時間をかけて回りました。当日は寒さが厳しいという予報でしたが、幸い太陽も出て穏やかな日和になりました。参加者はゲストを含め13名でした。
当日訪れた主な場所はこちらの地図をご覧ください。

19期の元栄徹さんに当日のレポートを書いていただきました。こちらをご覧ください。

@JR兵庫駅
9時30分JR兵庫駅に集合
兵庫駅は昭和5年の建築で構内の柱・天井などはなかなかレトロな雰囲気。
A柳原蛭子(ひるこ)神社、通称柳原えびす
毎年1月10日の前後3日間は十日えびすで賑わう。
  蛭子神社と福海寺との間の道路は 西国街道の兵庫の出入口である西の柳原惣門があったとされ碑が建てられている。
B福海寺 足利尊氏が開いた臨済宗の寺。七福神の大国天も祀られている。

( 福海寺HPより)
福海寺 縁起
当寺は康永3年(1344年)、足利尊氏公により開かれました。

 話は建武3年にさかのぼります。京都合戦に敗れた尊氏公は、丹波路を取り播州三草より兵庫に来られましたが、新田義貞軍の兵士に追われるところとなり、急遽福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜められました。それにより辛うじて一命を取り留めた尊氏公はその後兵庫を出航され、九州より西国の水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船を兵庫の地に再上陸させます。そして見事湊川の合戦に勝利されたのでした。

 室町幕府を開かれた尊氏公は、康永3年(1344年)一命を取り留めることとなった針が崎観音堂への報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願の為に、京都正伝寺より在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師を拝請し福海寺を開かれました。
 
  B福海寺 平清盛遺愛の時雨の松 石碑

(福海寺HPより) 
平清盛公遺愛の時雨の松は神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、太平洋戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。石碑の文字は、福海寺範国寺両住職であった大海元梁和尚が書かれています。
C柳原天神社
菅原道真公が大宰府へ左遷されることになり、その途次当地兵庫港に上陸し、折から馥郁たる梅花を愛で「 風さむみ雪にまかへて咲く花の柚にぞ移れ匂ふ梅が香」という歌を詠んだ。道真公の没後大宰府安楽寺の菅公廟より分霊を迎えて奉祀したのが当社の縁起である。(本殿横の由緒書きより)
 
  C柳原神社 境内
 
D能福寺 本堂月輪影殿 
京都東山の泉湧寺寺域の墓陵(月輪御陵)にあったものを宮内省と九条家により移築された。


(ウイキペディアより)
能福寺は平清盛所縁の寺としても知られており、1180年(治承4年)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに栄えた。その後、1341年(興国2年/暦応4年)に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、1599年(慶長3年)に長盛法印が再興したという伝がある。
 
D能福寺 兵庫大仏
(ウイキペディアより)
1891年(明治24年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された。この大仏は1944年(昭和19年)に金属類回収令で国に供出されるまで日本三大大仏の一つに数えられた。

現在の大仏は1991年(平成3年)に再建されたものである。毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになる巨大な坐像である。1991年5月の開眼法要には、東大寺管長、高徳院貫主が臨席した。
記念撮影1
東大寺大仏、鎌倉大仏とともに日本三大大仏のひとつといわれている。
記念撮影2
E真光寺 一遍上人の廟所がある時宗の寺

(ウィキペディアより)
仁明天皇(833年〜850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
建治2年(1276年)一遍上人がこの観音堂に住して中興開祖となる。
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人51歳で遷化。
遊行2世他阿上人が寺を建て、伏見天皇から真光寺の名を賜り、時宗の寺となる。寺伝によると、赤松則村(円心)が境内8町四方、寺領数百を寄進とある。
応安2年(1369年)、第6世尊観法親王が本山鎌倉遊行寺の遊行上人となり、以後本山遊行上人の兼帯となる。
慶長年間(1596年〜1614年)除地の黒印を得、「大道場屋敷分事」として仏堂・僧堂など34とある。
#転送 元禄5年(#転送 1692年)の届書には大徳院・法林院・慶重院・善長庵・乾寮・竜蔵庵・陽徳院・常徳院・養生庵などの塔頭を記録している。
天明8年(1788年)の記録によれば、塔頭には陽徳院・宝積院・修善院・西北院・聖徳院があった。
昭和20年(1945年)の神戸大空襲で全伽藍を焼失。清盛七弁天の真野弁天は大日堂にあったという。

E真光寺 一遍廟所 

(ウィキペディアより)
兵庫県指定記念物(史跡)(昭和46年4月1日指定)鎌倉時代後期
遺体は敬慕する沙弥教信のように野に捨てて獣に施せとの一遍の遺言であったが、在地の人々の結縁により観音堂前の松の根元で荼毘に付し、廟を設けたという。
E真光寺境内
新川運河に架かる清盛橋
新川運河
F時宗の寺 薬仙寺

(案内板より)
この地は奈良時代行基菩薩が開いたと伝えられる大輪田の湊に接し平安時代にはたびたび千僧供養が行われたところである。
承元元年(1207)法然上人が讃岐へ下るとき、ここへ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861)には英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊した由緒ある寺院である。

建武年間(1334年〜1337年)後醍醐天皇が隠岐島より帰京の途次病気となり、境内の霊泉で薬を調進するとたちまち平癒され、薬仙寺の号を賜わったという
F薬仙寺 境内の萱の御所は、福原遷都の際、後白河法皇を幽閉した跡
G和田神社の直ぐ近くの人目につかない住宅地に法然上人名号石がある。
入口に「元祖大師諸国二十五番霊場 第六番 名号石」の標柱がたっていた。
お堂の中に「南無阿弥陀佛」と刻まれた石が安置されていた。
H和田神社

(ウィキペディアより)
太古の昔、蛭子大神が淡路島から船で本州に到着したところを「蛭子の森」という。蛭子の森は、現在の神社より西南約800mのところで、元々の神社の場所である。平清盛が承安3年(1173年)、市杵嶋姫大神を勧請した。万治元年(1658年)、天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異をあらわし、それを知った当時の尼崎城主が天御中主大神を主神にして社殿を造営し、和田の明神というようになった。明治34年(1902年)、造船所の建設のため現在地に神社が移転された。
H和田神社 祭神は天御中主大神、市杵嶋姫大神、蛭子大神

I大輪田橋

大正末期の竣工。

(大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント碑文)
 平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大輪田橋は、1924年の竣工以来、二度の大きな災害に遭っています。1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求め、この橋に避難した多数の市民が、炎にまかれ犠牲になりました。
橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受けました。
 ここに、戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構成し、その時節の冬の星座をかたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

                                         1998年10月
                                             神戸市
J清盛塚

(神戸市HPより)
高さ約8.5メートルの十三重の石塔で「弘安9年(1286年)2月」の年号が刻まれています。もともとは現在より南西11メートルの場所にありましたが、大正12年に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転されました。
そのときの調査で遺骨は発見されず、墓ではなく供養塔であることが判明しました。
現在、石塔の隣には柳原義達(やなぎはらよしたつ)氏の作になる平清盛像と、琵琶の名手・平経正(つねまさ)にちなんだ「琵琶塚」碑が建てられています。
J平清盛像
昭和43年(1968年)建立
清盛塚付近
Kキャナルプロムナードに沿った川岸で羽を休めるカモメ
昼食は近くの広場のベンチで。
L清盛くんの像(7月の下見時に撮影)
入江橋にある。
N来迎時(築島寺)

(ウィキペディアより)
寺伝によると、平清盛が経が島を築くとき、暴風大波のため進まず、讃岐香川領主大井民部の子、17歳になる松王丸が進んで人柱になり完成したので、松王丸の菩提を弔うために寺を建て、念仏の道場としたという。
N来迎寺 松王丸の石塔