遷都1300年の奈良を散策

◆第5回歴史ウォーキング  日時/平成22年10月24日(日)  場所/奈良公園・平城宮跡界隈

 今回の歴史ウォーキングの舞台は遷都1300年を迎えた奈良で、企画段階から下見、試歩まですべて奈良市在住の田中由美子さん(北4)にご苦労をおかけしました。
 当日は奈良市のボランティアガイドの方お二人にご案内をいただき、好天に恵まれ健康的な一日を過ごすことができました。                                      
 今回のご参加は家族・ゲストを含め28名でした。

【当日の行程】
近鉄奈良駅9:00集合→興福寺国宝館→東大寺→二月堂→昼食→春日大社→平城宮跡 解散15:30 
                                                                                                                           
【参加会員は以下の方々です】
 ?田運三郎(高1)春日敏邦・島田寿夫(高5)佐々木悦子・木村八重子・清水良子(高9)押田良樹・畑田 稔(高11)加藤巡一・宮原琢郎・三島幸子(北2)土田和男・長野米一・松本耕司・三成宏二・森藤哲章・伊藤日出子・田中由美子(北4)岩田一志(北7)三好資子(北8)近藤文雄・橘 千里・小松久美子(北11)車谷斉造(ゲスト)

■レポート@ 小松久美子(北11)・・・出発から興福寺まで
 「紀行文は若手三人で・・・」、 「ん? 若手?」、 「そうなんだ、ここでは若手なんだ。でも諸先輩方をさしおいてそんなものを書くなんてありえない。ましてや、初参加のわたしが・・・ジョーク、ジョーク!!」と思ってから一ヶ月、宿題は忘れた頃にやってきました。
 一ヶ月もたつと、もうすっかり記憶の彼方でかすかにしか残っていない。しかし、今でも記憶に残っていることこそ、ずうっと心に残ることかもしれないということで・・・
 京都から奈良までの車窓は、稲刈りが終わったところ、柿の実をつけた枝々など穏やかな田園風景が広がり、ちょっとした旅行気分を味わうことができました。高校・大学と7年間一畑電鉄で通学していたので、その頃の車窓からの景色と重なり、片側に宍道湖があるような錯覚を覚えます。そうそう、皆さんは「RAIL WAYS」 をご覧になりましたか? あの映画の中には自分の体験した風景が画面いっぱいに広がっていました。
 そんなことを思ううちに近鉄奈良駅に到着。「行基さん前」ってことだけど,「行基さん」はどこ? ありました、ありました。近くには それらしき面々がおられ、ほっとしました。天気は曇りです。ウォーキングには、絶好の日でした。参加者28名、ご夫婦の参加も多かったです。
 京都在住の私は、京都もいろいろ回るのは好きですが、奈良には京都にはない飾らない魅力があり、何度も訪れたいところです。とりわけ気に入っている「阿修羅」像に会えるとあって、とても楽しみに初参加をしました。
 ウォーキングにはボランティアガイドの方がお二人来ていただいて、2班に別れて出発。私たち若手(嬉しいではありませんか。今、職場ではもう上がいないという年齢で、若手なんて呼ばれることはありえませんから・・・)の3人は、早めに行って段取り良く見学できるようにということで、急ぎ足で興福寺国宝館へと向かいました。
 さすがに遷都1300年でにぎわう古都奈良、9時過ぎにもかかわらず、すごい人です。後発の方々と合流後、十数分待ち、いよいよ中へ進みました。
 先輩の話を聞きながらの見学でした。その時は「なるほど」「へ〜、そうだったのか」と感心することばかりだったのですが、ほとんど記憶に残っておらず、唯一覚えているのは「悟りを開いている人ほど、身に着けているものが少ない」という意味のことのみ。あれが欲しい、これが欲しい、あれもしたい、これもしたいと思う自分など、まだまだこれからが本当の修行なのでしょう。
 楽しみにしていた「阿修羅」像は、時の人となり、脚光を浴びてスターになっていました。今の自分には少しまぶしかったです。4年前の1月に訪れたときは、同じこの国宝館は閑散としていました。人もまばらで、30分位でゆっくり見て回ることができました。その時の「阿修羅」像は、厳しい冬にすっと立つ凛とした美しさがありました。余命いくらも無い大学の後輩の見舞いの帰りでもあり、人の命は長さではない、どう生きたかなのだと思いながら、この像をずっと見ていたことを思い出しました。同じ像でもこんなに感じ方が違うのかなと思いました。
 今回、心に留まったのは、「須菩提」像(乾漆十大弟子立像の一つ、奈良時代147.5cm)でした。少し幼さの残る顔、穏やかで見る人をほっとさせるような目、見ているだけで心が癒されました。この8月に他界した父がいつも見守ってくれているかのようなあたたかさでした。
 今回、興福寺の国宝館見学で思ったことは、これらの像は、見る者のその時そのときの心を通して伝えるものが異なるということです。そして、千何百年という長い間、多くの人、一人ひとりに何かを伝えうる魅力を持っているということでした。
 何年か後、これらの仏像と出会えたとき、どんな風に感じるでしょうか? 自分の変化も含めてとても楽しみです。
 
 私の割り当ては「興福寺まで」ということで、かすかな記憶を手繰り寄せての拙文となりましたことお許しください。初めての参加で、皆さんのお名前も存じ上げず、失礼ばかりだったと思います。次回からの参加が可能であれば、又、お邪魔したいと思います。お声かけいただければ嬉しいです。楽しいひとときをありがとうございました。

■レポートA 橘 千里(北11) ・・・興福寺から春日大社まで
興福寺を出て、東大寺に向かいました。途中、鹿が随行してくれます。紙を持っている人は、鹿が狙ってきて、パンフレットを取られたりかじられたりした人がいました。
 いつもは、東大寺の前をチケット売り場の方に行くのですが、今日は右に行き、お水取りで有名な二月堂へ向かいました。東大寺の大仏殿の屋根には、金色の鴟尾(しび)がある。鴟尾は、魚の形で屋根は水面を表し、水面下に建物があることから、火除けのお守りだと言う話を聞きながら歩いていくと、途中古い塗り壁があり、とても風情のある道を行くと二月堂へ着いた。
 お水取りの時に、松明が回る回廊へ上ると奈良の町が一望でき、これから行く平城京旧跡を確認して下りたあたりに、多羅葉(たらよう)の木がありました。葉の裏に文字を書くと、黒く浮き上がってきます。これが、ハガキの語源だそうで、郵便局の横によく植えてあるそうです。横には三月堂、四月堂があり、いずれも旧暦の月に儀式が行われることから、その名がついたそうです
 そして、若草山の横を通り春日大社へと行きました。春日大社には有名な「砂ずりの藤」があります。美しい藤の花穂が1m以上垂れ下がり地面の砂を擦るほど伸びるそうです。藤の季節に来れば見事な砂ずりが見られるかも。
 「あおによし 奈良の都は 咲く花の におうがごとく 今盛りなり」の奈良の枕詞「あおによし」は、「あお」は青緑色、「に」は朱色の柱の丹色(朱色)、これらを組み合わせて「あおによし」だそうです。春日大社の連子窓(れんじまど・四角い窓)は、採光と換気を兼ねているそうですが、窓の縦の柱は「あお」く、周りは「に」の組み合わせで、この色の組み合わせが「あおによし」だと始めて知りました。境内では結婚式に出会いました。新婦は古式ゆかしい十二単(じゅうにひとえ)。タイムスリップをしたような世界にしばし見とれてしまいました。
 春日野園地では鹿にお弁当を狙われないようにお昼を食べました。途中、仕入れられたビールを飲まれた方はさぞおいしかったことでしょう。そして、昼食後はバスで平城京旧跡に移動しました。

■レポートB 近藤文雄(北11)・・・平城宮跡
 平城宮跡は、まずは朱雀門から入りました。建物の雨水が落ちた位置から建物の大きさを測り、高さは推定して復元したそうで、門の柱も当時の削り方で削ったとのことです。どうしてそのような面倒なことをしたかというと、後世に残す為だそうです。
 平城京は全体で面積25平方キロに人口約10万人と過密都市だったそうで、710年から784年まで日本の都がおかれました。平城京の大内裏である天皇の住居である内裏と、朝堂院という儀式を行う場所、役人の執務場所でもある役所が120ヘクタールにもわたっていたそうです。
 平城京の前の藤原京(694〜710)の宮殿は、都の中心におかれているが、これに対して平城京の宮殿は遣唐使によって持ち帰られた知識や文化により、唐の都・長安をモデルに、北の端に置かれたそうです。
 復元された大極殿の内部の壁画装飾は日本画家・上村淳之氏によるもの、四神獣の青竜(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)を方位の四方に、それぞれ国を守るための守り神としておき、十二支がその間に描かれていました。
 1300年前にこれだけの木造建築を建てる技術があったことに敬服し、朱雀門から大極殿までの直線距離は800メートルもある規模の中で政治が行われ、1万人もの人が働いていたことに感嘆を禁じえなかった。これと同時に、平城宮を発掘し、保存に尽力した人について興味を抱いた。
 
 【平城宮を保存した人・棚田嘉十郎】
 奈良公園の植木職人をしていた棚田嘉十郎は、明治33年、奈良県の関野貞博士による研究が新聞に発表されると、読めない文字を教えてもらいながら、平城宮跡に強い興味を持った。平城宮跡と呼ばれる場所は、一面の田畑であったり、大極殿の土壇とおぼしき跡もあったが、牛の糞なども落とされている荒れ地であるのを見て、これは奈良に住む人間として恥ずかしいことだと感じ、その保存運動を心に誓ったそうだ。
 嘉十郎らは、平城大内裏敷地図を複製して広く配り、奈良県民に平城宮跡の保存を呼びかけたり、「平城宮址保存会」をつくり、政府に宮跡保存を陳情するとともに、広く寄付を募って宮跡の買収を進めた。こうした努力が実を結び、明治43年(1910年)には平城奠都(てんと)千二百年祭が開催された。
 その後、日露戦争などがあり、資金援助も途絶えることもあった。嘉十郎は、毎日の食事は薄い粥というような大変厳しい生活を送り、跡地買収に私財を投じたが、報われることなく、体調を壊して失明してしまった。  
 こうした活動を続けた嘉十郎だったが、全てを買収するには、まだまだお金がいる時期に、匿名寄付行為を申しでたはずの謎の集団が出現し、寄付金による「平城京保存の名誉」を乗っ取ろうと企ててきた。その集団の怪しさが新聞記事となり、疑心暗鬼のなかで、嘉十郎は責任を取る形で、62歳で自ら命を絶ったが、この自刀により、宮跡地も、大正10年に無償贈与されることになった。
 平成22年、平城宮遷都1300年祭が開催され、平城宮朱雀門の門前に立つ棚田嘉十郎像は、363万人もの人が奈良の遺産である平城宮跡を訪れたことに、喜んだに違いない。

 解散は3時30分、こうして約20,000歩の充実した歴史ウォーキングが終了しました。